天久宮は、聖現寺(しょうげんじ)の境内にある神社です。天久宮の社殿は太平洋戦争で焼失し、戦後しばらくは御嶽の形式で奉祀していましたが、1972年に御嶽の上に再建されました。
天久宮の由来
創建は成化年間、十五世紀中頃。
むかし、銘苅村に銘苅の翁子が閑居していました。 ある夕日の没する頃、天久野に威儀を正した法師を従えた気高い女人が山上より下って来るのに出会います。 中腹には小洞窟があり、井戸から水が湧き出て流れていました。 翁子が法師に女人が誰かと尋ねると、法師曰く、 自分は山の中腹に住んでいるが、女人は山上の森に住む者で名前は分からないと答えました。 翁子は不思議に思っていましたが、 あるとき女人が洞窟に入る時に、中途で消えるのを見ます。 翁子は驚き、事の次第を王の臣下に伝えました。 伝え聞いた時の王は虚実を試さんと役人に命じて、洞窟に向かって香を供えたところ、 それが自然に燃えたので、外に社殿を造営して祭りました。
天久宮の拝殿
天久宮は3階建ての構造になっており、3階が駐車場です。拝殿へは階段を降りてゆきます。
天久宮の御祭神は、天龍大御神(てんりゅうおおおんかみ)・天久臣之姫大神(あめくしんおとめおおおんかみ)・泊龍宮神(はくりゅうぐうしん)・弁天負泰彦大神( べんてんふやすひこのおおかみ)・弁財天(べんざいてん)と伊弉冉尊・速玉男神・事解男神(熊野三神)です。
龍神は、天龍大御神(父龍)・天久臣之姫大神(母龍)・弁天負泰彦大神(長男の次男)が祀られていますが、境内に御嶽があるのは、弁天負泰彦大神だけです。天龍大御神と天久臣之姫大神の御嶽は、すぐ近くの天久にあります。
2階に天久宮の拝殿と本殿、権現堂、泊竜宮神、弁天負泰彦大神の御嶽があります。天久宮の拝殿と権現堂は案内がありますが、泊竜宮神、弁天負泰彦大神の御嶽、泊ユイヤギ御嶽の案内は見当たりません。
手水舎は、龍の口から水が出ています。天久宮は龍神に関係があることが垣間見えます。
天久宮の本殿は拝殿の後ろに建っています。
天久宮の権現堂と弁天財
境内の奥には権現堂があります。
権現堂右横には弁財天があります。翁子が出会った女人は熊野権現の遣いであり、弁財天であると云われています。
天久宮拝殿の右横から龍宮神へ
天久宮拝殿の右横の階段を上がって行きます。拝殿の後ろに見える建物が天久宮の本殿です。
泊龍宮神 弁天負泰彦大神の御嶽
琉球石灰岩を登りきると、泊龍宮神(はくりゅうぐう) 、弁天負泰彦大神の御嶽が現れます。
泊港は琉球のとても古い時代からある港です。那覇港が整備されるまでは泊港がメインの港でした。
その昔13世紀中ごろ、泊龍宮神の拝所がある天久宮周辺には、周辺離島からの貢物を収納する倉や役所が置かれていたそうです。
弁天負泰彦大神は、琉球神道の龍神である天風龍大御神(あまふうりゅうおおかみ)の次男で午の干支の龍神です。
泊ユイヤギ御嶽と三日月ウカー
更に階段を降りると1階には御嶽があります。となりは学校のグラウンドです。
泊ユイヤギ御嶽が祀られている石灰岩の大きな岩の頂上に、泊龍宮神、弁天負泰彦大神の御嶽が祀られています。
泊ユイヤギ御嶽の上に天久宮が建てられたことになります。
三日月ウカーは井戸の跡です。
帰りに駐車場の車が少なくなっていて気がつきましたが、駐車場の片隅には貴布仁御世の御嶽がありました。鳥居の右側奥に車が止まっていると最後まで気がつかなかったと思います。天帝子御世とあるので天孫氏に関係がある神様かもしれません。
天久宮のご利益は縁結びで女性におすすめのパワースポットです。ご利益は子宝、安産、健康、家内安全、縁切り、縁結びと言われています。
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