識名宮(しきなぐう)は琉球王国から厚い信頼を受け保護されてきた琉球八社のひとつですが、琉球処分により無格社とされました。
社号は琉球神道記(1608年)には「尸棄那権現」・琉球国由来記(1703年)には「姑射山権現」と呼ばれ熊野権現と関わりがあります。
識名宮本殿裏の洞窟
識名宮のもとの社殿は洞窟内にあったのですが、湿気で痛みが激しく1680年同地に建て替えられました。現在も洞窟は本殿裏にあり、毎月1日と15日に扉を開門していますが中には入れません。
識名宮に伝わる伝説
尚元王(1556~72年)の長男「尚康伯」の大病回復のご神徳があり、識名宮と神応寺を建てお祀りし国王の行幸が始まりました。
昔古真和志間切識名村(現繁多川含)は、広々とした荒れ野原で、人家はありませんでした。毎晩その地から光る物があって北斗星と牽牛星の間にまで光射していました。ある時、近くの村に住んでいた崎間知之の妻大阿母志良礼といふ者が密かにこの光る物を見に行きました。夜の風が冷え冷えと吹いていて一面は暗く、辺りには人影もない所で、ただ一つの洞穴があるのみでした。その洞穴には賓頭盧が一体安置されていました。大阿母は夜な夜な北斗星と牽牛星の間まで光射しているもとは、きっとこの賓頭盧の霊光に違いないと思って、これを深く信仰していました。
洞窟すると、不思議な事にいろいろと願事が叶えられていきました。人々もこの話を聞いて、ここを信仰する者が多くなったといわれています。その当時、尚元王の長男大具志川王子朝通尚康伯が病氣を患っていました。大阿母はこれを聞き早速王子の御殿に伺い、賓頭盧の霊験が非常にあらたかであるといふことを言上しました。王子はこの話を聞いて、ただちに病気平癒の祈願をこめさせると、果して霊験あらたかで、病が日に日に癒されていつの間にかもとの元気な体になりました。その御神徳にたいして、王子は自分の財を奉納してお宮とお寺を創建しました。その側には家を建て大阿母を住まわせて宮を守らせました。この時から大阿母は毎月一日と十五日には、斎戒沐浴して国家安泰の祈念を始めました。その後、王府のはからいでこの宮寺が遂に官社に昇格し、大阿母には住居を御拝領賜ったといわれています。又、別の伝承に、大阿母には一人の孫娘がいたのですが、その人と身なりは一般の娘と変わっていて、全身ことごとく白く、髪や眉までが雪のようでした。また言葉を慎み神仏を深く信仰し、魚や肉を非常にきらって野菜を常食としてひたすら精進していました。
或る日、孫娘が屋敷の榕樹がじゅまるの下に行くと突然その姿が消えてしまいました。それ以来姿を見せなくなって、家族の者は不思議に思い続けました。その後、その不思議な娘のことを神の化身として尊び、供え物は常に野菜精進物に限っていました。
識名宮社伝による
木大阿母は、家族の者に対して「あの榕樹がじゅまるの所には必ず神が居られるので、伐ってはならない、また枝も折ってはならない」と戒めました。人々もまたこれを聞いて信仰する者が多くなったと云います。 大昔は識名村には人家がなく、大阿母の家があるばかりでした。それ以後、次第に人々が集まるようになって村落が出来、後に識名と繁多川に分かれました。
識名宮の手水舎とシーサー
琉球八社の手水舎は、ほとんどが龍の口から水が出るようになっています。
識名宮の社殿
琉球八社の権現信仰は熊野三山に見立てられており、末吉宮は熊野新宮に、普天満宮は熊野那智に、識名宮は熊野本宮に見立てて信仰されていたそうです。
識名宮の御祭神は熊野本宮大社の第一殿・第二殿の祭神がお祀りされています。
首里城から識名宮まで琉球王が歩いた金城町石畳道
琉球八社の中で首里城にもっとも近い識名宮は、首里城から琉球王が歩いた金城町石畳道が今も残っています。
御祭神
御祭神は、伊弉册尊・速玉男命・事解男命、午ぬふぁ神、識名権現(女神)です。
伊弉冉尊
創造神、万物を生み出す女神です。
速玉男命
日本書紀に登場する神。イザナギが黄泉国にイザナミに逢いに来た祭互いにある約束事を交わした時に、唾を吐き合う儀式の中から生まれた神様です。
事解男命
日本書紀に登場する神。イザナギが黄泉国にイザナミに逢いに来た際互いにある約束事を交わした時に、発した言葉から生まれた神様です。
午ぬふぁ神
午(南)の方角の神、転じて午年生まれの守り神といわれます。
ご利益
海上安全、豊漁、豊穣、諸産業の振興、厄除、安産、家内安全、病気平癒、健康祈願、長寿の神、建築関係諸祈願、商売繁盛、受験合格祈願、初宮詣、交通安全祈願、等、諸願成就の神として参詣も多くなっています。
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