南の龍珠 仲島の大石にある仁天屋船久久姫神の御嶽

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仲島の大石
仲島の大石

仲島の大石(なかしまヌウフシー)は、那覇市泉崎の市外バスターミナル構内にある琉球石灰岩で、高さ約6m、中央部の周り約25m、下部の周囲は約18mあります。岩の下部は波に洗われてくぼんだ跡(ノッチ)があり、昔はこの辺りが海であったことがわかります。

仲島の大石の付近は、仲島前の浜(なかしまメーヌハマ)、大石の前(ウフシーヌメー)などと呼ばれていました。また仲島の大石は、近隣住民に文筆峰(ぶんぴつみね)とも呼ばれ、縁起の良い岩として大切にされてきました。

沖縄県指定史跡 天然記念物 昭和33年3月14日指定

高さ約6メートル、中央部の周囲は約25メートルの琉球石灰岩で、岩の下の方は波に侵食されてくぼんだ「ノッチ」と呼ばれる跡がある。昔このあたりが海岸であったことを示している。久米村の人々は「文筆峰」とも呼び、村の風水にかかる縁起のよい大石として珍重していた。
また、この付近に仲島の遊郭があり、多くの遊人が訪れ賑わっていた。歌人として有名な「よしや(吉屋チルー)」も、この遊郭で短くはかない生涯を終えたと伝えられている。1908年(明治41年)には、仲島の遊郭は辻に合併移転し、大正初年までにはこの付近は埋め立てられ、現在に至っている。
平成2年3月 沖縄県教育委員会 那覇市教育委員会

仲島の大石は南の龍珠

仁天屋船久久姫神
仁天屋船久久姫神

1672年。王府が仲島一帯を宅地にしようと予定し、これを知った対岸にあった久米村(くにんだ、現在の久米)の人々が埋め立てに反対しました。
久米村の長官であった金正春という人物が『風水では久米の南門に当たる場所なのでこの石は重要である』と言いました。

風水では南の龍珠とされていたのです。

岩の下に拝所、岩の上には仁天屋船久久姫神の御嶽があります。仁天屋船久久姫神は、琉球神道の龍神である天水龍大御神(あますいりゅうおおかみ)の次女で酉の干支の龍神です。

葛飾北斎の球陽八景

仲島蕉園

また仲島の大石近辺は、葛飾北斎の球陽八景「仲島蕉園」にも描かれたほどの名勝でした。中央の大きな岩が「仲島の大石」です。

仲島遊郭(ゆうかく)

古くはこの付近に仲島遊郭(ゆうかく)があり、1908年に辻町(つじまち)に合併移転するまでにぎわっていました。仲島遊郭には、琉球王国の遊女で歌人(琉歌)の吉屋チルーがおり、多くの琉歌が生まれています。

仲島の大石から北西に通りを少し歩くと最初の交差点の角に小さな説明板があります。

『泉崎村(いずみざきむら)にあった人工の溜(た)め池跡。
 かつて泉崎村の地先一帯は、久茂地(くもじ)川が漫湖(まんこ)に合流する河口で、土砂が堆積(たいせき)した中州(なかす)は「仲島(なかしま)」と呼ばれ、その後の埋立により陸続きとなった地域である。
 河口(かこう)の水が湾入(わんにゅう)していた所は、17世紀中頃、泉崎村在住の唐人(とうじん)の薦めにより、火難封じの風水として、土俵をもって潮入口を塞ぎ、溜め池(小堀(クムイ))とした。小堀は、王国時代から養魚場として使われ、後に泉崎村の管理地となり、池から上がる収入で小堀の浚渫費(しゅんせつひ)に充てたという(『南島風土記(なんとうふどき)』)。
 仲島小堀では、その後も鯉(こい)や鮒(ふな)が養殖されていたが、昭和初期には埋め立てられ、1937年(昭和12)、埋立地に済生会(さいせいかい)病院が建設された。
 一方、仲島には、1672年に「辻(つじ)」(現那覇市辻一帯)とともに花街(はなまち)が開かれた。歌人として有名な「よしや」(吉屋チルー)は、この仲島で生涯を閉じたとされる。泉崎村から仲島へは小矼(こばし)(仲島小矼)が架けられており、花街への出入り口であった。仲島は、1908年(明治41)に辻に統合・廃止され、小矼も埋立・道路拡張により消失した。
 花街廃止後、埋立により住宅地として発展した泉崎は、沖縄戦後の区画整理により、往時の街並みとは異なった住宅地となった。』

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